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2016/08/15

新作発売開始とPopup Shop開催に向けて

9月10〜11日に開催されるPopup Shop
ポップアップショップ-1
これに伴い、TCBのこれまで、WORKERSのこれまで。お互いの出会い、そしてこれから・・・といった対談記事を本日から数日にわたりアップいたします。
基本的に先行してアップされたworkersのblogと同じ内容になりますが少しだけ写真を追加して御紹介出来たらと思います。
TCBのこれまで・・・
ポップアップショップをするにあたり、そもそも「TCBとはどんな人?」「WORKERSとはどんな人?」「どうやって知り合ったの?」といったあたりを少し紹介しようと思います。

本日は、TCB・井上の歴史編から。まだWORKERS・舘野と出会う前のお話になります。
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本文中に出てくるTCBが初めて勤めたサンダイヤ跡地にて

TCBの歴史編 その1

WKS: そもそも何年、どこ生まれ?

TCB: 1980年、昭和55年生まれで広島の福山の近くです。

WKS: そもそも洋服に興味を持ったきっかけは?

TCB: ミーハーで恥ずかしいんですが・・・中学時代に見た「若者のすべて」ってキムタクが出てたドラマなんです。

WKS: 早熟だね~。

TCB: 中学になるとすぐに新聞配達初めて、確か3万円ぐらい最初のバイト代が入ったんです。だから中学生にしては自由になるお金があって。「若者のすべて」で木村拓哉が演じた上田武志。流石にロン毛にはしませんでしたが彼の少し腰に引っ掛ける感じのジーンズの穿き方やロールアップの幅、革に悪そうなエンジニアブーツの脱ぎ方、タ◯コの銘柄から箱の空け方まで真似して友達と盛り上がってました。

WKS: で、洋服は何を買ったの?

TCB: バイト代握りしてめて、福山でオシャレの登竜門CASPAに行き店員さんに進めらるがままEVISジーンズを買いました。当時の雑誌にも称されてましたが15cmほどロールアップして俗に言う「EVIS穿き」をしてました。

WKS: 確かに、我々の世代だとビンテージはそう簡単に買えない。レプリカ買うのだって清水の舞台から・・・だったよね。

TCB: 自分で意識して穿いた最初のジーンズはLEVI’Sでは無かったですが、前開きがボタンで、縮んで、捻れて、色が落ちて。それを育てて行く感覚。それがとても新鮮に感じたのを今でもよく覚えています。
で、そんな中学時代の後、高校に入るのですが早々にドロップアウトしてしまって。

WKS: そうだったんだ。それからは?

TCB: それこそ、近所の建設系のバイトとかしながら実家ぐらしでノラクラしてました。でも服だけはどうしても好きで、今でも覚えてる97年にマッコイのモナークのA-2買ったり。先の事何も考えないで「バイト何日すればあれが買える!」なんて生活でした。18に成った頃、将来を考えて「やっぱり好きな服の仕事で生きていきたい!」と思い、まずは販売の仕事を探しました。

WKS: 広島、福山っていえば生地屋さんにしろ縫製屋さんにしろ、実は児島以上に集まってるんだけどね。

TCB: 今でこそわかるけど、当時は全くそういう情報も無かったし、何より「作る」にすぐに頭が行かなかったんですよね。大阪に出て、アメ村とか販売員募集を探しても中々見つからず。そんな時に「京都のポーキーズさんが募集してたよ」と聞いてすぐに連絡して採用してもらいました。それが広い意味での「洋服業界」のスタートです。

WKS: その販売員時代に、お互いの共通の知人とTCBも会ってるんだよね。私も、その人から「岡山でジーンズ作ってみたい」なんていう面白い子が居たよって聞いてたし。

TCB: そうです、その方は縫製に詳しい人だったので、お店に来られた時に色々話しました。お店は、レプリカジーンズのようなクラフト系のアメリカンカジュアルがメイン。日々、お店に立っていると門前の小僧ではないですが、やれユニオンスペシャルだ、力織機だ、児島だといろいろ知るわけです。服を売るのも楽しかったですが、もっと知りたい。作ってみたいと、純粋に思うようになりました。そこで、お世話に成ったポーキーズの社長には自分の気持ちを伝え、退職させてもらい児島へ向かいました。

WKS: 向かったって言っても、つては?

TCB: 無いです。電話帳見てかたっぱしから「被服」とか「縫製」と名のつくところに電話しました。でも、どこも「経験者」「男性は縫製工の採用は無い」なんて返事ばかり。そこで、最後にかけたサンダイヤという縫製工場で「もし、ミシンの整備工見習いから始めるならば」という事で拾ってもらいました。

WKS: サンダイヤ、私が勤めてたカマダさんのすぐそばで大きい建物だったよね。

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かっこつけてます。3階建ての本当に大きな建物でした。
夏に成ると窓が開いてたから冷房は無かったんだろうな・・・

TCB: そうです、三階立てでした。工場に入った当時はエンジニアードジーンズが良く流れていたのを覚えています。そこで、整備工見習い、そして掃除から何からやるいわゆる「見習い」をさせてもらいました。手が空いた時は自分はオートベルターというループを切って・カン止めをして止める、半自動ミシンを踏ませてもらいました。

WKS: ある意味で、本当の量産工場。今となっては貴重な経験だね。今の日本でそういう、ある程度の量を早く、出来るだけ安価に作ろうというのは難しいからね。

TCB: そうですね。ただ、その方向性にやっぱり今思えば時代とズレが出たのか。勤めて1年後ぐらいに工場の稼働率が6割ぐらい、週の2-3日は休みという状況に成ってしまいました。当然、新米の私にも整理に近い話が来ます。縫製の仕事をもっとしたいという思い半ばではあるけれど生活がある。悩んだ末に退職して他の仕事を始めました。児島のすぐ近くに水島という場所があり、そこで三菱自動車の工場があります。そこで、期間工の仕事を始めました。

WKS: そうだったんだ。サンダイヤからそのまま、また違う会社で働いたのかと思った。

TCB: 正直、期間工を始めてからは不安ではあるけれど、収入は縫製の仕事よりも安定している。自分はこのまま行くのかな?縫製の世界はあきらめるのかな?と漠然と思う時もありました。そんな時、期間工の先輩に自分の身の上話をしたのです。すると、たまたまその先輩の友達で児島で縫製では無いけれど、服に関係する仕事をしている人が居るから紹介しようか?と。もう、渡りに船です。そこで、紹介していただいたのが、矢部さんという方なんです。

WKS: そうなんだ、では次回その矢部さんに登場してもらいましょう。

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手前が矢部さん。TCBを服つくりの世界に戻してくれた人。
TCBに仕事教えてくれて、金が無いときは飯食べさせてくれて。
話を聞けば聞くほど良い人。

一度は洋服の世界をあきらめたTCB。彼を再び、生産の世界に戻してくれた矢部さんの登場です。矢部さんも今はAgilityという縫製工場をされています。

矢部さんのお話・・・・・・

矢部さん: 初めて井上君(TCB)を見た時の印象は一言で「汚い」。当時はバイクに乗ってて、着るものもボロボロのジーパンやジージャン、フライトジャケット。今よりだいぶ痩せてはいたけど、とにかく汚かったね~。

WKS: その後、矢部さんが一緒に働かれて覚えていることはありますか?

矢部さん: まず会社入って1か月後ぐらいかな?いきなり井上君が来ない。心配して電話すると「あ、今アメリカです!」。そういえば、会社勤めするときに「ためたお金で一度アメリカを見に行きたいんです」とは言っていたけど、だれにも言わずに行くとはな~。会社の社長も「あんなのは首だ!!!」って言ってたけど、アメリカからち~さなショットグラス一つお土産に買って帰ってきて。それで社長もコロッと許してしまってね。
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矢部さんの工場にて。太さ違いすぎ!

WKS: 井上君らしいというか・・・

矢部さん: そう、社長だけじゃなく縫製のおばちゃんにもかわいがられたり。とにかく、人当たりの良いのが彼の良い所よな。おかげで、外注さん行くと話が盛り上がって帰ってこなかったり。

WKS: 彼の「ここが良かったな」という部分は?

矢部さん: やっぱり「縫う」という事に最初から興味を持って自分でやっていたこと。ある意味「縫う」という点に関しては、当時も教えてもらう部分があったし、今もそれは同じ。ただ、会社自体は量産工場では無いから自宅にミシンを少しづつ買って夜な夜な縫ってたよな?

TCB: それはワーカーズも同じですよね?

WKS: そうそう、児島に来た服が作りたい奴の第一歩は「家に工業用ミシン」

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TCBの家写真が無かったので、WORKERSの昔住んでいた家の写真から
こういうミシンが普通に民家にあるのが児島スタイル
※私は当時から5Pパンツばかり縫っていたので巻き縫いミシンは2本針の設定にしてましたが、舘野家のミシンは当時カバーオールやペインターばかり縫ってた?せいで3本針仕様にしてるのが画像から確認できます。
糸調子も強めに設定されてますね。
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※workersblogの方には載ってない2006年の私の自宅 狭いアパートにミシンを7〜8台は置いて有ったと思います。
玄関を開けてまずはアイロン台の上を通り越してから奥の部屋に入る仕組みになっておりました。
ミシンのレイアウトを優先するあまりベッドを捨てた甘酸っぱい思い出も有ります
舘野氏も書いておりますが、20代の児島に働きに全国から来た組は必ずと言って良いほどミシンと同棲を始めます。

矢部さん: 夜縫い物して、徹夜で仕事へ。給料は全部ミシン代に消えて。飯代も無いからよく一緒に食べに行ったな。

TCB: ほんと、数えきれないぐらいおごってもらいました。

WKS: さすが、君は人に好かれるな~。それに矢部さんや勤め先の社長が良い人すぎる。勤めさせてもらった会社はどんな会社?

TCB: いわゆる「振り屋」に近い業態でした。東京のメーカーさんから仕事をもらい、それを児島はじめ地場の工場で作り納品する。パターン、生地、付属(部品)は工場で買う時もあれば、メーカーさんからの支給もあり。自分の想像で、児島には「工場」しかないのだと思っていました。そこに、自社ではわずかな生産設備だけもち、外注さんをメインに物を作って納めるという仕組み自体がとても新鮮でした。

WKS: そこでTCB自身は何を?

TCB: いわゆる「営業」がメインです。会社入ったばっかりの自分にも、社長や矢部さんが許してくれて東京に営業で一人で行かせてもらったり。もし今自分の会社に、当時の自分みたいなのが来たら矢部さんや社長のように同じ事が出来るかどうか?というと正直考えちゃいます。自由にさせてもらい、かわいがってもらい、感謝しかないです。
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矢部さんとTCB井上君、ラッパを見ながら談笑?

WKS: で、数年たって矢部さんが独立され。TCBもその後を追うように関連会社へ・・・

矢部さん: 自分がまず独立して。ある日井上君が「会社辞めてきました!」って歩いて来て。当時、井上君は会社の車を借りて自宅から通ってたのでまずその晩、どうやって家帰るんだ?って。仕方が無し、知人に電話して余ってる車借りて、とりあえずの足を用意して・・・

WKS: むちゃくちゃですね、相変わらず。なんでそんな事したの?

TCB: 今思うと馬鹿なのですが。当時の勤め先の社長も自分で会社を興した人だったんです。自分が当時25-6。社長は同じ年の頃にはもう会社を興していた。そんな事を悶々と考えているうちに、まずは会社を辞めて、自分で何かをしたいという思いが募ってしまって・・・。でもこれが自分の甘さなんですが、だからといって明確なプランがあるわけでなく。まず、矢部さんに相談に行ってしまったんです。

矢部さん: 当時の井上君、ミシンはある程度そろっていたけれど仕事を受ける目途があるわけでも無し。

TCB: なので、矢部さんに頼んでもらい、今度は加工メインの会社に籍を置かせてもらいました。自分でもある程度、ミシンがあってできることがあるので、加工に付随した縫いの仕事をさせてもらったりしていました。

WKS: 矢部さん、最後にTCBのこれから、どうなってもらいたいですか?

矢部さん: 井上君とは一回り、12歳年が離れているんだよな。いつかは先輩に恩返しできるようBigに成ってください。

WKS: ありがとうございました!

次回はTCB・WORKERSの出会い編です。

それと
TCB30’s HAT BLACK
TCB30’s APRON
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発売開始しております。
宜しくお願い致します。
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